皇軍とベトナム戦争(2)

ベトナムに受け継がれた皇軍の戦法

皇軍とベトナム戦争(1)の続きです。

(2)アメリカ軍を震撼させたペリリューの戦い

それまで、日本軍は上陸部隊を水際で食い止める水際戦術を基本としていました。
しかし、水際戦術は米軍の圧倒的な火力(爆撃・艦砲射撃)を前に兵力をいたずらに消耗するばかりで、上陸を阻止することはできませんでした。

映画[太平洋の奇跡]より、サイパン島万歳突撃シーン


そこで、大東亜戦争終盤、日本軍はこれまでの研究を基に、独特のゲリラ戦法を編み出しました。

それは水際での防衛に固執せず、艦砲射撃や空爆に耐えられるように、地下に陣地を築き、戦力を温存しておく。


(洞窟を利用した陣地)

そして、米軍が上陸してきてから本格的な攻撃を仕掛ける。
それも正面衝突の激しい戦闘はなるべく避け、銃剣突撃も控え、ゲリラ的な戦いに徹して泥沼に引きずり込むという戦術です。

この長期のゲリラ戦術で米軍を苦しめた戦いと言えば「硫黄島の戦い」が有名です。


(硫黄島司令官 栗林忠道陸軍中将閣下、のち大将)


(映画「硫黄島からの手紙」)

硫黄島の戦いについては以下の動画で詳しく解説されています。

第13回 前編 硫黄島アメリカを苦しめた栗林忠道大将~万歳突撃・自害禁止をした理由~ 【CGS 偉人伝】


第13回 後編 「余は諸子の先頭にあり」~指揮官先頭・栗林大将の武士道~ 【CGS 偉人伝】


硫黄島の戦い」の前に、ゲリラ戦術を最初に本格的に実行したのが「ペリリュー島の戦い」です。

ペリリュー島の戦い」はその後の「硫黄島の戦い」「フィリピンの戦い」「沖縄の戦い」などのモデルになりました。

ペリリュー島の戦い」については天皇皇后両陛下、パラオ御訪問の記事もご参照頂ければと思います。

ペリリュー島守備隊は、厚さ2.5メートルのコンクリートの中に、大砲や機関銃を隠すなど島内に堅固な防御陣地を構築しました。
また、洞窟などを利用して島内を要塞化し、神出鬼没のゲリラ戦を展開して、米軍を散々に苦しめたのです。



ペリリュー島守備隊は1万1千人の兵力しかなく、米軍はその約3倍の兵力を有していました。
更に、戦艦5隻・巡洋艦8隻を投入するなど火力でも圧倒していました。

昭和19年(1944年)9月、米軍2万8千人がペリリュー島制圧を目指して意気軒昂と上陸してきました。
この時、彼らはペリリューを2・3日で攻略するつもりでした。

しかし、皇軍は激しく抵抗し米軍は大苦戦、攻略するのに2ヵ月以上もかかりました。

この戦いでの死傷者は両軍ほぼ同数でした。

皇軍
戦傷者 約1万900人(戦死:約1万700人、負傷:約200人)



米軍
戦傷者 約9800人(戦死:約1800人 負傷:8000人)


皇軍は司令官の中川州夫大佐が自決した後も、一部の兵士がゲリラ戦を続行し、終戦2年後の昭和22年の4月に投降しました。

※「一部の兵士」
山口永少尉以下34名が洞窟・地下壕を利用してゲリラ戦を展開

ペリリュー島守備隊は、その戦いぶりが高く評価され、先帝陛下から嘉賞11度、感状3度が与えられました。

このペリリュー島守備隊の戦術はその後の皇軍の戦い方の手本となり、硫黄島やフィリピン、沖縄でもこの戦術が採られ、アメリカ軍は多大な犠牲を強いられることになるのです。


次回は、この皇軍の戦術がベトナムにどのような影響を与えたのかという本題に迫っていきたいと思います。

今回もご覧頂きありがとうございました。